オウンドメディア「みんなのごはん」が終了して
ちょっと前に「みんなのごはん」が終了した。Webライターの人達の間では話題で「あのメディアが終わってしまうとは……」といった雰囲気になっていた。
ただ、「みんなのごはん」は6年間続いていたのだ。平日は毎日2本以上の記事を更新するという密度だった。それが移り変わりの早いこの時代に6年間も続いていたのだから、あれは成功していたんじゃないかと思う。
(逆に立ち上げ時に「10年以上は続けるオウンドメディアを作るぞ~」という気持ちでやっているところもないだろう)
だから、僕の感想としては「残念だけれどもこんなもんかな」という感じである。
さらに同時期に有名なWebメディアのいくつかが終了したことで、「オウンドメディアはもう流行らないのでは」という記事も見かけた。
でもそもそもオウンドメディアってそんなに流行るものなのだろうか。一つの事業会社による継続的なコンテンツの制作。テレビで言えば一社提供の5分間番組みたいなものだろう。そういうのって昔からあるし、上品でいい番組が多いけれども、あれがすごく流行るという状況も奇妙だ。
制作側は、ちょっとバブル的な流行りを求めすぎているんじゃないかなと思う。淡々とやりましょう。
あした『天気の子』を見に行くのでストーリー予想
新海誠監督の新作『天気の子』が楽しみだ。幸いにもまだネタバレが全然ないこの状態で、『天気の子』のストーリーを予想してみる。
僕が知っている情報は以下の通りだ。
・タイトルは『天気の子』
・ボーイミーツガールものらしい
・ラッドウィンプスの音楽がめっちゃかかるらしい
予想してみよう。
○○○
世界から「天気」が失われて200年……。人々は高く巨大な「塔」の中に移り住んでいた。「塔」の中に人類に必要な物は全て設置されており、人々は一生を塔の中で過ごすようになっていた。
実際に塔の住民のほとんどが外に出たことはなかった。若い世代にとって世界とは塔のことであり「塔の外」という概念がない。
○○○
主人公はやんちゃだけど、興味津々の男の子。今日も塔の中を縦横無尽に走り回り、いたずらばかりしている。
そんなときに、主人公は自分が本来は入れない低階層領域に足を踏み入れてしまう(塔の中は厳格な身分制度が存在し、身分の高い物ほど上階に住んでいる)。
そこで主人公が見た物は、身分の低い物が毎日を命からがら暮らす世界だった。
「この世界は一体何だ……?」
やがて主人公は低階層で「長老」という人物に出会い、「外」の世界の概念を知る。
「そと……?」
「知らないのか。無理もないな……」
主人公は外の世界に興味を持つようになった。
主人公はさらに塔の中で探索を続け、低階層の一室に幽閉されている女の子と出会う。
男の子と女の子は一目で恋に落ちる。
「こんなところからは逃げよう」
二人は重罪である塔からの逃亡を企てる。求めるのは「塔」の管理が及ばない自由な世界。数々の追っ手をなんとか振り切り、命からがら塔から脱出した二人が見た物は……。
「天気」が失われ、荒廃しきった世界だった。
「僕たちが求めた外の世界はこんな物だったのか?」
落胆している主人公。しかし主人公と女の子は追っ手からの攻撃を受けて瀕死の状態である。女の子に至っては意識がない。後ろを見ると、塔からさらに追っ手が来ている。捕まるのは時間の問題だ。
「ここで全てが終わるのもいいかもしれない。おれたちはあの管理された「塔」の外に出られたんだ。それだけのでよかったじゃないか……」
主人公は最期と思い、女の子にkiss― その瞬間、女の子が光り輝き宙に浮き始める。女の子から放出される光の帯は塔よりも高く伸び、やがて天まで達した。
(ラッドウィンプスの音楽がかかる)
その時である。色彩のない空間だった空ににわかに雨雲が発生し、土砂降りの雨が降り出した。
「これはいったいなんだ? 上から水が落ちてきたぞ……?」
天気の失われた世界に天気が戻ってきた瞬間であった。あと、追っ手は雷に打たれてみんな死んだ。
外の世界の岩陰から出てくる人々。
「あれは……伝説の天気の子じゃ!!!」
女の子は天気のない世界に天気を取り戻すと言い伝えられていた伝説の存在だった。だから塔の中に幽閉されていたのだ。
男の子と女の子は、外に残っていた部族の洞窟に連れていかれて、数日間の手厚い看護をうける。
回復した二人が外に出て見た物は、真っ青に晴れた空(この晴れの描写の美しさで観客は泣く)。
「世界って、こんなに美しかったんだ……」
(またラッドウィンプスの音楽がかかる)
そしてもう一つ信じられない光景が目に飛び込んできた。それは大雨により倒れてしまった「塔」だった。
部族は二人を「神」と崇め、自分たちを統治してほしいと懇願する。それを受けて、二人はこの世界で生きていくことを決意する――。
天気の子 完
○○○
見た人、どうですかね?
あってますかね?
はげを隠している担任の先生
昔を振り返るエッセイを書いてます。
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突風が吹いて、バーコードはげのおっさんの髪の毛がひらひら~っと舞う。
現実にはなかなか見たことがないが、「あるある」ネタとしてこんな場面って想像できるのではないか。
僕が中学校の頃の担任の先生は、まだ30歳くらいだったが、見事な若はげだった。
昔の侍のように前頭部から頭頂部がはげ上がっている。いや、侍ははげているわけじゃないんだけれども、あれでたとえるのが一番わかりやすい。
髪の毛が生えない、というのは本人にはどうしようもない生まれながらの器質であり、そこに着目するのはよくない。当時中学生だった僕たちにもそのくらいの分別はあったと思う。
しかしこの先生は頭の後ろから前髪を持ってきて、自分のハゲを隠そうとしていたのだ。彼の残っている部分の毛は存外に太くたくましく、真っ直ぐに生えている。それがこのようなヘアスタイルを考案させたんだろう。
実際、それは効果がなくもなかった。一瞬見るくらいなら、はげているとわからないのである。でも次の瞬間に違和感が出てくる。1秒以上見ていると完全に気づいてしまう。
この髪型は非常に繊細な運用が必要になる。ちょっとでも前髪が揺れてしまうと、前髪の異常な長さが強調されてしまうのだ。先生も細心の注意を払っていたようで、普段から頭を完全に固定していて、そう簡単には頷いたり、振り返ったりはしなかった。
堂々としていれば「そういう人なんだ」ということで特に誰も気にしなかっただろう。しかし人間の精神という物はそんな単純な作りにはなっていないのである。
自分の見かけをバカにされたくない。しかしそのバカにされたくないという自意識を見透かされて、さらにバカにされてしまうというのは、なんとも皮肉だと思う。
まずいことに先生の専門教科は「体育」だった。屋外にいれば、風が吹き荒れていることもある。
日光のの男体山から起こる北風は、体育教師の自意識などお構いなしに吹き荒れる。風に舞う前髪。最初はバカにしていた中学生男子も「なんか先生ちょっとかわいそうだよな」という感想を次第に持ち始めるようになった。
ただ、未だに目に焼き付いている光景がある。あれは運動会の準備をしていたときのことである。いっこうに練習がまとまらない中学生に対して、体育教師である彼は全校生徒全員をグラウンドに体育座りさせ、激しい叱責を行っていた。
シュンとした様子を見せる生徒達。ただ、この日の風が強かったのはどうしようもなかった。
怒り狂う先生。
舞い上がる前髪。
日に照らされてきらめく頭頂。
笑いをこらえきれずに吹き出す生徒……。
「こら! そこ! なんで笑っているんだ!」
「いえ……。なんでわらっていると言われましても……」
もうこりゃコントだよ。でも誰が悪いわけでもない。
説教が終わったあとに、僕は友人達に「あの様子をどう思ったか」と個人的にヒアリングを試みた。「笑った」という者が半分。「悲しかった」という者が半分だっただろうか。
そうだよな、笑うけどやっぱり悲しいよな……。僕もそう思う。
中学生はありとあらゆることから機微を学び取り、成長してゆく。
斎藤充博
@3216
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「笑ってはいけない」中学校の頃の話
人生の振り返りエッセイを書いてみようかなと思う。初回は中学生の頃の話。
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僕の住んでいたところは栃木県の塩谷町というものすごい田舎で、文化の香りが何もないところだった。
家から一番近い本屋に行くのに自転車を30分こぐ。レンタルビデオ屋は親に車で連れて行ってもらわないといけない。
ただ、中学校の近くには駄菓子屋があって、そこにはじゃっかんのビデオゲーム「ヴァンパイアハンター」があった。今思えばこれは文化だったのかもしれないな……。とにかく、そういうレベル感の田舎を想像してもらえればありがたい。
もちろん今のようにケータイもスマホもない。したがって自分たちで遊びを考えていた。
僕たちが考えた遊びの中で一番すごいやつは「囲み」という。「囲み」をやるのはいつもの5~6人のグループである。
「囲み」のルールは2つ。「教室の隅で輪になる」、「笑ったやつは、輪になっている全員から全力でしっぺを受ける」というものである。
このルールから導き出されるムーブはなにか?「輪の中のやつを笑わせる」というものだ。自分が笑ってしまう前に、相手を笑わせて、全員からしっぺを喰らわす。そういう遊びである。
「囲み」の最初は、ダジャレとか、ヘンな顔から始まったと思う。こんなのでもけっこう笑ってしまう。人は「笑うな」と言われると笑ってしまうのだ。
しかしこの遊びを毎日行うことにより、僕たちのネタは次第に過激に、次第に洗練されていった。その中でも忘れられないネタがある。「タモリ」というネタだ。
自分の制服のワイシャツのボタンをゆっくりと、上から一つずつ外してゆく。次第に半裸になるわけだが、肌に「とても上手に描けているタモリの似顔絵」が貼り付けられているのだ。
「裸になって笑わそうとしているのかな?」と一瞬思わせておいて、タモリが出てくるのがミソなんだろう。あれはすごかった。
もう一つすごいやつもあった。「傘がない」というネタである。これは井上陽水の「傘がない」を歌いながら黒板に設置してある丸形磁石をゆっくりと笑わせるターゲットの鼻先に近づけてゆく、というもの。
なにがおもしろいのか、一切説明ができないのだが、ものすごい迫力がある。これをやられてしまうと必ず笑ってしまうのであった。
僕はネタの創造性に乏しかったのだが、必殺技があった。「笑いをこらえたままの表情でターゲットの顔に顔を近づける」というものである。
人が笑いをこらえている顔というのは意外と笑える。僕はこの技を「カウンター」(笑いの攻撃を受けて返すため)と呼んで多用していた。
「囲み」におけるしっぺは無慈悲そのものであった。5~6人のそれぞれが、「いかに相手に強大なダメージを与えるか」を研究し尽くした全力のしっぺを繰り出す。
笑った瞬間に、全員からのしっぺが確定するわけで、下手をすると10分間の小休みの間に50発以上のしっぺをうけることもめずらしくない。
たぶんみんな「研究し尽くされた全力のしっぺ」というものを体験したことはないだろう。
しっぺを受けた腕はいともたやすくミミズ腫れになる。そんな状態でも「囲み」のメンバーたちはしっぺの手をゆるめることはない。
むしろ、しっぺをするときにはミミズ腫れになっているところを狙い、さらなるダメージの追加を目論むのであった。
このようにバイオレンスな遊びだったが、けしてイジメの要素はなかった。あまりにもミミズ腫れがひどくなったときには「しっぺはミミズ腫れのない逆の腕にしておくか」という提案もあったのである。
しかしその提案を飲むものは一人としていなかった。笑ってしまったら堂々と「こっちにやれ!!!」とダメージを負っている方の腕を差し出したものである。みんなバカだけどかっこよかったのである。
この遊びを行っている数人があまりにも楽しそうだったために、「おれも(わたしも)、まぜてほしい」という申し出もいくつかあった(女の子からの申し出もあった)。
しかし、興味本位で来たものは、一瞬で脱落。こんな遊びについて行けるはずがないのである。ますます「囲み」のメンバーの絆は深まるのであった。
余談だが、後にダウンタウンの「笑ってはいけない」というそっくりの罰ゲーム企画が人気になり、僕はものすごくびっくりした。
教室の隅の小さな輪の中にギュッとつまった狂気。あのときのあいつらと一緒でなければできなかったことだ。それがわかるのは、その後何年も経ってからのことである。
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あなたの価値
価値というものは、社会の中での関係性から生まれるものだ。
わかりやすいのは、為替相場。いろいろな人々の思惑が重なって、円とドルの価値が上がったり下がったりする。
給料やギャラの多寡も同じことだろう。仕事の大変さではなく、その仕事内容が社会の中でのどんな位置を占めているかによる。
たとえば、AIを作るようなIT人材は高給が取れるという。これは現在の社会でそれが求められているからに他ならない。
マッサージ師の給料が安いのは、特に社会の中で求められていないから。
どちらがすばらしい仕事だとか、どっちの技術を身につけるのが大変か、というのは関係がない。
あなたにも、きっと社会の中の役割に応じてそれぞれの価値がつけられている。
ただ、おもしろいことにあなたが持っている社会的な価値というのはあなた自身にとってはなんの関係もないのだ。
自分は社会の中でどんなポジションにいようが(聖人でも犯罪者でも)自分にとっての自分は唯一無二で、どんなときでも最大である。
その一方で、あなたにとって、あなたの存在というのは、唯一無二であるがゆえに、社会の中では交換ができない。つまり価値が発生しない。
つまりあなたの存在は価値があるけど、全く価値がない、という両面を矛盾なく同時に持っている。
だからなに? という話になりそうですが、僕はこの文章を通して、どんな人間でも人類平等なんじゃないの? ということが言いたいです。